今年のゴールデンウィークを、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。特にお天気にも恵まれた後半戦、渋滞があまり激しくなかったことを幸いに、私も車に乗って軽井沢方面に出かけてきました。
そんな中で、今回特に目についたのは、近頃ではごく普通になった「わ」ナンバーのカーシェア車がまた増えたな…ということと、トヨタのアルファードなどに代表される新車なら数百万円もするような高級ワゴン車の多さでした。
特に後者については、磨き上げられた黒塗りのボディにスモークガラスがついた顔面ギラギラの車たちが、道の駅などに競うように「ドーン」と並べられていたこと。この日本でも景気のいい人はいいのだなと、その光景に少し驚かされたところです。
注意して観察すると、その多くが地元長野をはじめ、群馬、栃木、山梨などの地方のナンバーで、都内からの車は案外少ない様子。黒いTシャツにゴールドチェーンなどを身につけたグラサンのお兄ちゃんや、日に焼けたガタイのいい30代くらいの短髪のおじさん達が、(イマドキ珍しく)運転席でタバコなどを咥えながら、オラオラ顔で運転していたりしています。
確かに、最近では首都圏を少し離れると、街角で見かけるのは軽自動車かこうした大きなワゴン車ばかり。女性や高齢者の方などが日常の足として軽自動車を愛用しているのは何となくわかりますが、500万円を超えるような高級ワゴン車が、まるで昔のカローラのように田舎道を普通に走り回っているのは不思議と言えば不思議な光景です。
それに、こうした車を運転しているのは、比較的若い(少し)強面のひとばかり。どうして彼らはこんなにも車にお金をかけられるのかと不思議に思っていたところ、1月26日のビジネス情報サイト「Merkmal」にライターの伊綾英生氏が寄稿した、『「ヤンキーはなぜ高級車に乗れるのか?」 ネットの素朴な質問が示した、都市部ホワイトカラーとの「逆転現象」』と題する記事が目に留まりました。
地方都市で消費の向かう先が車に集中しやすいのは、経済的な合理性に照らせば理解しやすいと伊綾氏はこの記事で解説しています。
総務省の「消費者物価地域差指数(2023年)」を見ると、東京都の住居費指数が127.2、神奈川県が112.2であるのに対し、岐阜県は82.4、鳥取県は82.7、香川県は81.6、石川県は81.2にとどまる。都市部で働くホワイトカラーが、手取りの30~40%を家賃や住宅ローンに充てているのに比べ、実家を生活の拠点とする層にとっての「余剰資金」は、目に見えやすい耐久消費財へ向かいがちだと氏は言います。
ましてや、閉じた地域社会の中では、クルマは所有者の経済力や立ち位置を即座に示す存在になる。高級車が強い存在感を放つ背景には、こうした環境の違いが横たわっているというのが氏の指摘するところです。
さらに、農家や地主の家庭で子どもに高級車を持たせる行為は、都市部で語られがちな「甘やかし」とは異なる文脈に置かれていると氏は話しています。
わが子に対し、進学にともなって都市へ送り出す選択を取らず、地元での就労を後押しする家庭も少なくない。その際、車両を与えるという判断は、「消費の放縦」ではなく、一族の資産や生活基盤を長期的に維持するための現実的な資金配分として理解する余地があるということです。
氏によれば、地方における自動車は、地域社会への帰属を示すわかりやすい基準として機能してきたとのこと。現金収入が不安定でも、土地という含み資産を抱える家計にとって、車は趣味の対象ではない。後継者をつなぎ留め、家庭内の秩序を保つための手段として扱われているというのが氏の見解です。
都市で重視されがちな「将来への備え」としての教育投資と、地方で選ばれやすい「現在の居場所」を固める耐久財への支出。その緊張関係が、この判断の背景に横たわっていると氏は言います。
摩擦が生まれる理由は、消費の見え方に偏りがあるから。高級車という結果は誰の目にも映る一方で、それを可能にした生活費の親負担や、大学進学にともなう支出が発生していない事情は外から見えない。前提条件が伏せられたまま、結果だけが評価される状況がそこに生まれているということです。
一方で、今やクルマは、個人や世帯の経済構造を映し出す鏡へと変貌していると氏は説明しています。
氏によれば、「高い車に乗っている人は成功者」というわかりやすい図式はすでに力を失い、代わりにどのような金融の仕組みを使い、生活コストを誰が引き受けているのかが(そこからは)透けて見えるとのこと。
例えば、家計のなかで使途を分散させている(都市部の)生活様式と、世帯として得た収入を車という耐久財に寄せていく(地方の)生活様式。自動運転や共有型サービスがさらに浸透していけば、「所有」そのものに意味を見いだし続ける層と、移動を機能として割り切る層との差は、これまで以上にはっきりしてくる(だろう)というのが氏の予想するところです。
路上で目にする光景は、努力や才能の結果を示しているわけではない。そこに映し出されているのは、日本社会に横たわる居住地の違い、家族のあり方の違い、資産の持ち方の違いが、車という形をとって可視化された姿だと氏は記事の最後に指摘しています。
この状況を、前提を欠いた不公平と受け止めるのは、地域社会の実情を理解していないから。地方でよく見かける高級車は、豊かさの象徴であると同時に社会の基盤がどこに置かれているかを物語る存在になっていると結ばれた記事の指摘を、私も興味深く読んだところです。