今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#3154 新聞が読まれなくなった理由

 5月13日の参議院決算委員会における参政党の梅村みずほ議員の質問に対し、林芳正総務大臣が答弁で口にした「クラッシック・メディア」という言葉がネット上などで話題になりました。

 梅村氏は質問の中で、国民の中にメディアに対する分断が生まれており、ネットメディアとのニュースの報じ方の差異への不信感が、テレビや新聞などの「オールドメディア」に向いていると指摘しました。

 所感を求められた林大臣は、「オールドメディアという言葉をよく耳にしますが、(総務大臣として)放送を所管しているので、なるべく“クラシックメディア”と呼ぶ努力はしている」と(たぶんジョークとして)答弁。そのうえで、「インターネットでの誤情報の問題が顕在化する中で、(中略)放送事業者は社会的役割を自覚し、自主自立の枠組みのもとで国民の期待に応えてほしい」との認識を示したところです。

 さて、実際のところ、オールドメディアの代表格である新聞については、特にその存在感が急速に薄れている印象が否めません。世界的に見ても、今年2月には、アメリカを代表するクオリティペーパーの「ワシントン・ポスト」紙が従業員の3分の1を解雇し、スポーツ報道や国際報道など複数の部門を閉鎖・縮小すると伝えられました。

 もちろん日本も例外ではなく、一般紙の発行部数は2025年には2300万部程度にまで減少。2000年の同発行部数は4700万部だったので、四半世紀で半分以下になってしまった計算です。

 真偽のほども判らない匿名のネット情報が氾濫する中、これからのメディアはどういった形で社会に受け入れられていくのか。2月3日の山形新聞に、神戸女学院大学理事長で思想家の内田樹氏が『メディアはどうなるのか』と題する一文を寄稿しているので、指摘の一部を小欄にも残しておきたいと思います。

 全国紙はいま劇的な部数減にさらされている。民放テレビも末期的な状態。若い人は新聞を読まず、テレビも視ない。全国紙も民放テレビも、ビジネスモデルとしてはあと十年持つか分からないだろうと内田氏はこの論考に綴っています。

 なぜ「こんなこと」になったのか。それについてメディア側から真剣な分析を聴いた覚えがない。しかし、「なぜ新聞を読む人がいなくなったのか」という問いには定型的な答えが用意されていると氏は言います。

 それは「読者が高齢化したから」「若い人がネットでニュースを読むようになったから」「読者全体のリテラシーが低下したから」というもの。(氏によれば)これらはどれも事実の一端を衝いてはいるということです。

 一方、内田氏はここで、新聞やテレビから人が離れたのは、「消費者のニーズに合わせる」というマーケティングに追随した結果ではないかと改めて指摘しています。

 日本のメディアが過去半世紀まったく試みてこなかったのは、「読者のリテラシーを向上させ、その結果コンテンツの質を向上させる」という、読者への働きかけだと氏は話しています。

 やってきたのはそれとはまったく真逆の、「消費者の質に合わせて、コンテンツの質を下げる」ということばかり。それを配信者たちは「サービス」だと信じてきた。そして、そうやって市場のニーズに合わせ、コンテンツの質を下げていった結果が現状である。そろそろ「マーケティング理論」が破綻していることに気づいてよい頃ではないかというのが氏の指摘するところです。

 いま新聞社は、傘下のカルチャーセンターを次々と閉鎖しているらしい。理由は「採算が合わない」から。でも、この種の文化事業は赤字に決まっている。それは、収益のための事業ではなく、メディアが身銭を切って国民全体の教養と見識を向上させるためだからだと氏は説明しています。

 そうやって読者のリテラシーを高め、その読者を満足させるだけ質の高い紙面を作る。カルチャーセンターはそういう「高め合い」のための事業だったはずだ。それを「収益にならないから閉じる」というのは、「読者を育てる」というアイディアそのものがもう経営者の脳裏には存在しないことの証左だということです。

 さて、お笑い芸人が出演するトーク番組やドラマばかりになった民法テレビや、(年寄り向けのイデオロギーばかりが先に立ち)だからといって相手にされず、先細り感の漂う新聞から魅力が失われつつあるのは誰もが認めるところ。気が付けば(今どき)朝の通勤電車の中で「紙」の新聞を開いているのは、(あきらめの悪い)私くらいのものになってしまいました。

 組織として長年培ってきた経験とノウハウを持つメディアの人々が、個人経営のようなネット民に負けてしまうのには何か理由があるはずです。読者のリテラシーを上げ、読者を育てることを怠ってきたオールドメディアと、そうしたオールドメディアを失った社会が行きつく先は、一体どういったものになるのか。

 真面目に考えると、今の日本はかなり危うい状況にあるのかもしれません。

 

#3153 孤独・孤立と訪問事業のリスク

 世界一安全だと言われる日本ですが、そんな均質性の高い社会であっても、(もちろん)多種多様な背景や考え方を持つ人が存在する。このため、時に信じられないような価値観や理解しがたい行動をとる人に遭遇し、驚かされることもよくあります。

 それでも、(それが)会話が通じる人や、悪意を持って接してくるような人であればまだ良い(←良くはないが)のですが、中には妄想の世界に入り込んでしまっている人や、言動自体が破綻している人などもいるので、アンテナを張って自分で気を付けるしか自衛の方法はありません。

 このような場合、(普通であれば)その人とは物理的に一定の距離を保ったり、そもそも近寄らない、かかわらないというのが正解なのでしょう。しかし、こと仕事となればそうとばかりも言っていられない場合があるのは当然のこと。

 リスクというのは、案外身近なところにあるものです。そして、もしもそんな人に危害を加えられたりしても、心神喪失とか心神耗弱とかいった理由で泣き寝入りしなくてはならないことは目に見えています。

 最近では、コンプライアンスだとか人権上の配慮だとかでこの手の話題は(メディアなどでも)タブー視されることがほとんどですが、はっきり言ってしまえば「世の中には、一定の割合でかなり危険な人がいる」ということ。これは(いわゆる)綺麗ごとでは済まない「現実」だと知っておくことは、(この世の中を生き抜くうえで)欠かせない素養なのかもしれません。

 埼玉県ふじみの市で、亡くなった患者の家を訪問した主治医がその家の息子に射殺されるという痛ましい事件が起こったのは2022年1月のこと。今年の6月1日には、今度は同じ埼玉県の川口市で、担当する高齢者の自宅を訪れたケアマネージャーが、「金をだまし取られる」と一方的に思い込んだ(利用者の)息子に刃物で切り付けられ、死亡するという事件が起こりました。

 一体どういう状況だったのか。どうすればこうした事件は回避できたのか。

 6月3日のYahoo newsに介護・暮らしジャーナリストの太田差惠子氏が『「ケアマネジャー」への“ハラスメント” 「利用者家族」等から起きる3つの要因』と題する一文を寄せているので、参考までにその概要を残しておきたいと思います。

 ケアマネジャー(介護支援専門員)と言えば、介護を必要とする人がサービスを受けられるように、ケアプランの作成やサービス事業者との調整を行うスペシャリスト。それぞれ介護保険利用者自宅に赴き本人や家族とやり取りすることも多いが、そんな中で「事件」とはならないまでも、利用者家族や当人によるケアマネジャーへのハラスメントが少なからず起きているのが実態だと太田氏はこの論考に綴っています。

 なぜ、理不尽なハラスメントが生じるのか。そこには、大きく3つの要因があると、氏は専門家として指摘しています。

 一つ目は、利用者側に、福祉サービスへの過剰な権利意識が生まれる場合があるということ。「それくらいやってくれて当たり前」「なぜ、やってくれない?」「他の人はやってもらっている」(思い込みの場合もある)…そんな思い込みが怒りに繋がるケースはそれなりに多いということです。

 二つ目は、「ストレス」「被害妄想」という心的要因が生じやすいこと。特に利用者が孤立しているケースでは、ストレスが蓄積されていて、怒りが他者に向かうことがあると氏は言います。中には、要介護者への虐待や「〇〇に違いない!」という被害妄想などから、矛先が(ケアマネなどの)支援者に向かうケースもみられるということです。

 そして三つめには、「閉鎖性」という環境要因があると氏は指摘しています。原則、ケアマネジャーは利用者宅を1人で訪問する。家族がいる場合は「1対複数」という構図になりやすく、家族が主導権を握ったり、「立場が上」と錯覚されることも多いということです。

 氏によれば、これらのような場合でも、(例え理不尽だと思っても)ケアマネジャーは(支援を打ち切ると利用者の生活や生命に大きな影響を与えるため)支援を続けざるをえないとのこと。すると相手は自ずと増長し、悪循環に陥るケースもあるというのが氏の指摘するところです。

 実際、介護サービスの利用が増加する中、一部の利用者家族や当人らによる、ケアマネジャー等介護職員に対する多くのハラスメントが発生していると氏は現状を説明しています。

 そして、加害者の約7割は利用者の家族等で、利用者本人は約4割という調査報告もある由。折しも10月1日に「カスタマーハラスメント」対策がすべての企業に義務化されることになるが、介護人材が不足する中、“複数での訪問”等は簡単ではない(だろう)というのが現場を良く知る氏の見解です。

 さて、話は戻って、6月1日の事件では、犯行直後に自身で110番通報し「これから自分も刺す」と話した容疑者は、警察官が現場に駆け付けた時には既に同じ刃物で自殺していたとのことでした。

 この(犯人と目される)無職の男は、認知症を患いほぼ寝たきりの90代の母と実家で2人暮らしをしていた息子(3人兄弟の末っ子)で、近所の人の話では、都内の大学を中退後一度は就職したものの職場に馴染めず、その後は何十年も実家で家のことをやっていた(いわゆる「ニート」)だったとのこと。

 若い頃から30年以上ほとんど引きこもって生活しており、近所の人からは「人と関わるのをみたことがない」と言われるなど、社会から孤立していたとされています。

 「普段から、近所の人に怒鳴ったりするので有名な人」「近所の子供たちが外で騒いでいると、爆竹を投げつけることもあった」などという評を聞くと、その状況がたしかに「普通」ではなかったことがよく分かります。

 一方で、そういう人にはなかなか福祉や医療の手が差し伸べられることはないようです。何か事件があって初めて、「あの人ならやりかねない」なんて言われても、それは「後の祭り」というもの。孤立することによって心を病み、心を病んだ人間がますます孤立していくのが、つながりを失った(現在の)地域社会の現実なのでしょう。

 ともあれ、こうした社会であればこそ、特に(相手を選べない)訪問事業に従事する人たちなどが、彼らとのトラブルに備えるにはどうしたらよいか…が課題になっているのは事実です。

 理屈が通じない、説得しても聞く耳を持たない、そんな相手を前にできることは、正直、限られています。空間的に二人きりになるような環境を作らない、個人で解決しようとせず組織として対応する…など、その場に合わせた危機管理や、対処療法的な対応は勿論大切ですが、結局、「自分の身は自分で守るしかない」…という個人任せになってしまうのは否めません。

 私自身、こうした問題は大いなる「理不尽」を含んでいるだけに、人間の「尊厳」の在り方とともに(現実から目を逸らすことなく)深く議論する必要があると考えるところ。人権の名のもといたずらにタブー視することなく、社会としてこの問題にきちんと向き合う必要があると感じているのですが、果たして如何でしょうか。

#3152 既に国民はツケを払わされている

 中東情勢を受けた3兆1135億円の補正予算が、与党・自民党、日本維新の会ほか、国民民主党、チームみらい、日本保守党の賛成により(異例のスピードで)6月5日に成立しました。これにより、2026年度の基礎的財政収支は、28年ぶりの黒字想定(1.3兆円)から一転して1.7兆円の赤字となることが決まっています。

 一方、この状況については、前年度分の赤字国債のうち3兆円分が税収の上振れによって発行せずに済んだため、 高市氏は「市中への発行総額は増やさずに対応するので国債マーケットに影響を与えないと説明しています。

 しかし、例え計算上はそうだったとしても、今回の補正予算は、本来なら国債の償還に回せるはずだった原資を支出に回したことにほかならないのは子供にだってわかります。高市首相が「悲願」とまで口にした消費税の減税の議論も進む中、(後のことを顧みない)財政赤字の拡大は、国民生活に一体どのような影響をもたらすのか。

 5月26日のビジネス情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に経済ジャーナリストの磯山友幸(いそやま・ともゆき)氏が、『日本円の劣化で"給与だけで生きる人"に忍び寄る悲惨な現実』と題する論考を寄せているので、その指摘を少し覗いてみたいと思います。

 日本の借金増加に歯止めが利かなくなってきた。「国債及び借入金並びに政府補償債務残高」いわゆる「国の借金」は、3月末で1343兆8426億円。前の年度末に比べて1.52%、20兆1271億円増加し、10年連続で過去最多を更新したと磯山氏は状況を説明しています。

 国の借金を巡っては、国債を国内で賄っているので増加しても問題ないという主張もありますが、実際に長期金利の上昇や円安が進むといった問題が起きています。これ以上日本の財政状況が悪化した場合、この後そのツケはどのような形で国民に降りかかってくるのか。

 4月1日時点の人口推計で単純計算すると、国民1人当たりの借金は約1094万円になる由。国の借金の話題になると、必ず人口ひとり当たりの金額が示されるが、そのツケが国民一人ひとりにすぐに回ってくるわけではないと氏はこの論考で語っています。

 もちろん、いずれ「増税」という形で国民の負担になるわけだが、民主主義国家である日本では政治が決断しない限り、簡単には増税はできない。つまり、先送りできる限りは先送りされることになるだろうというのが氏の懸念するところです。

 実際、高市早苗内閣でも増税の話はほぼ表に出ず、逆に選挙で掲げた食料品の消費税をゼロにするか税率1%にするのかといった議論がかまびすしい。(少なくとも今の政治家の間では)国民が喜ぶ減税には熱心でも、国民負担が増える増税を口にする者は少ないということです。

 政治家は予算の大盤振る舞いには熱心だ。国民が物価上昇に悲鳴を上げれば、物価高騰対策として補助金を配りましょう、ということになると氏は話しています。

 確かに、ある程度の借金をしてでも積極的に財政出動することで経済が成長すれば、それによって税収も増え、借金返済の原資が生まれることもあるだろう。しかしそれは、将来、リターンが戻ってくるものに投資をすることが前提で、単純に物価上昇を招くような財政支出は問題を引き起こすというのが氏の見解です。

 例えば国債がデフォルトしなくても、財政悪化によって国債の信用度が落ち、債券価格が下落(金利が上昇)する懸念は十分にある。金利が上昇すれば、借り換え債を発行する際の調達コスト、金利負担が増えることになり、さらに借金が増えるという悪循環に陥りかねないということです。

 氏によれば、実際ここへきて長期金利が大幅に上昇しているとのこと。5月18日には長期金利(10年物国債金利)が一時2.8%にまで上昇したが、これは何と1997年以来、29年ぶりの高水準だったと氏は指摘しています。

 一方、財政赤字が拡大し国の借金が増え続けた場合、もっとも端的に影響が出るのが為替で、円安の進行が避けられなくなる。4月30日の大規模な「円買い・ドル売り」の為替介入でいったん円高方向に動いた為替も、その後ジワジワと円安が進み、再び1ドル=159円近くになっているということです。

 円安が進めば、当然、輸入物価の上昇が進む。輸入する原油やLNG(液化天然ガス)の代金も大きく上昇し、ガソリン価格や電気代のコストを大きく引き上げ、国民生活の大打撃を与えると氏は言います。

 何ということはない。再びガソリン代や電気代の補助金を積み増さざるを得なくなり、するとさらに財政上が地が膨らんで、イタチごっこを繰り返すことになるということです。

 では、どうすれば財政を健全化し、国の借金を減らすことができるのか。

 国の借金が1000億円を突破しそうな頃は、財務省もメディアを動員して「借金増を抑えないと国の財政が破綻する」というキャンペーンを張ったと氏はしています。

 確かに、(その結果)ネット民から、「増税メガネ」などと不本意な二つ名を頂戴していた(可哀そうな)首相もどこかにいたような記憶があります。しかし、結局のところ政府はその後も借金を増やし続け、2025年3月末には1300兆円を突破していることを、政府もメディアもあまり気にしている様子はありません。

 そして現在、高市内閣は、(「責任ある積極財政」というスローガンの下)防衛費の大幅な増額や、景気対策の補助金などに大盤振る舞いを続け、いわゆるプライマリーバランスの黒字化も棚上げしていることは皆の知るところ。では、このまま借金が増えた場合、どういう形でツケは回ってくるのでしょうか。

 実は、既に国民はツケを払わされ始めていると氏はここで厳しく指摘しています。

 これはすなわち、いわゆる「インフレ税」のこと。日本円の実質的な価値が下がることで、預貯金の資産が目減りする一方、政府の借金の負担も実質的に軽くなっていると氏は話しています。

 物価上昇によって、同じものを買っても支払う消費税は着実に増える。インフレが進めば政府の税収も増え、借金は目減りするから、政府にとっては都合のいいことばかりだということです。

 日経平均株価は過去最高値を更新し続けているが、株高が日本の国力を示しているというよりも、円通貨の劣化が株価や不動産といった資産価格の急上昇をもたらしているように見えると氏は最後に話しています。

 資産を持たず、劣化する円建ての給与。しかも物価上昇には到底追いつかない賃上げしかされない給与に依存する日本の庶民が、金利上昇や円安という形でツケを払わされることになるのだろうと懸念を深める磯山氏の指摘を、私も頷きとともに読んだところです。

#3151 専業主婦への風当たり

 与党自民党と連立を組む日本維新の会は今年4月、国民年金の第3号被保険者制度について対象者を縮小する方向で一致。既に夫婦(と子供)の世帯の7割以上に達している共働き世帯の増加を背景に、制度の見直しに向け検討を進めるとしています。

 もちろんこの縮小が実現すれば、これまで保険料の負担がなかった主婦らが自分で保険料を納めなければならなくなります。

 例えば「世帯」の単位で計算すると、世帯月収が30万円の専業主婦世帯の場合、現行制度では世帯主が月に基礎年金分1万7000円を含む2万7000円を支払っています。しかし、3号被保険者制度がなくなると、配偶者は個人として1万7000円を支払う必要が生まれ、(世帯では)2万7000円とあわせ4万4000円を支払う必要が生じることになります。

 今回の制度見直しについて、共働きなど自分で保険料を払っている世帯からは「専業主婦だけが払わないのは不公平」、また、自営業者(の妻)などからは「サラリーマン世帯だけ優遇されている」といった不満が生まれていたのは事実です。

 社会構成の変化や厳しい国民年金の財政状況を踏まえれば、見直しも世の中の流れなのかもしれません。

 しかしその一方で、縮小の対象となる専業主婦たちからは、「いきなり1万7000円は高すぎる」「子どもが小さいうちは負担は大きい」などの声が上がっているようです。(世帯の中で)働いて稼いでいるのは一人なのだから、負担も「一人分」にしてほしい…という理屈もあるのでしょう。

 いずれにしても、「年金」は個人の人生設計にもかかわる影響の大きな問題です。安心していたのにいきなり梯子を外すようなこと言われても…と不安に駆られる専業主婦の人も多いかもしれません。

 そうした折、女性情報誌「女性自身」の5月5日号が、(主にそうした女性の視点から)この問題を取り上げているのを見かけました。(『高市政権の“主婦年金”改悪への懸念…「剥ぎ取り」と不安の声も』)

 4月13日、自民党と日本維新の会は社会保障改革を巡る実務者協議で、「主婦年金」を縮小していく基本方向で一致した。日本維新の会は第3号被保険者制度の廃止を公約に掲げてきたので、この機に見直しが一気に進だろうと記事は見ています。

 (同記事によれば)今からおよそ四半世紀前の2002年に厚生労働省が厚労省が示した「見直し案」が示唆しているのは、まず、年金の受給額を減額する「給付調整」を行うというもの。同案では、第3号被保険者の年金受給額を2分の1にする案と4分の3にする案が示されているということです。

 実施されれば、例えば今年度に(世帯で)受け取れる基礎年金の満額は84万7300円なので、これが42万3650円に減額されるということ。65歳から95歳までの30年間受給するとすれば、生涯で1千200万円以上受給額が減ると記事は指摘しています。

 そして、記事が「いずれ採用される可能性が高い」とみているのが、以下の「負担調整案」だということです。

 これは、これまで負担のなかった専業主婦などの被扶養者にも、一定の負担を求めようというもの。当時の厚労省案では、サラリーマンの専業主婦にも国民年金保険料の半額の負担を求める案が出されていたということです。

 現在の国民年金保険料は月1万7920円なので、その半額となれば、月8960円、年間でおよそ11万円の保険料が徴収されることになる訳ですが、50歳の主婦が60歳までの10年間負担する場合、約110万円の負担増となると記事は説明しています。

 (半額というのはまだ「甘い」)最悪の場合、日本維新の会が主張しているように、主婦年金そのものが廃止される可能性もある。その場合、国民年金に一本化され、保険料の全額を負担しなければならなくなる可能性も出てくるというのが記事の認識です。

 障害のある子どもの育児や親の介護などで働けない場合でも、応分負担となれば、実質的には配偶者の収入から保険料を負担せざるを得ない。本人に収入がなければ、(申請すれば)免除を受けることはできるものの、将来もらえる年金は少なくなってしまうということです。

 第3号被保険者制度に対しては、(確かに)「専業主婦ばかり優遇されている」「共働きは夫婦で負担しているのに」といった不満の声が強く上がるようになっている。しかし、政府が(旗を振って)「公平性の是正」を理由に、働く女性と専業主婦を対立させるような議論を進めるべきではないと記事はここで指摘しています。

 いまだに十分な保育や介護のインフラが整っているとは言いがたく、女性が安心して働ける雇用環境も十分とは言えない。そうした状況を放置したまま主婦を悪者にするのは、本来制度が負うべき責任を個人に押し付けているともとれるというのが、記事の指摘するところです。

 もとより、負担が増えれば、未納・滞納者が、さらに増える可能性があると記事は話しています。記事によれば、現実に、現在の国民年金保険料の収納率は約8割で、裏を返せば2割近い人が未納となっている由。さらに、所得が低いために約600万人、全体の3~4割の人が全額免除・猶予を受けているということです。

 未納や滞納、免除を合わせると、(現状ですら)半数近くが保険料を満額支払えていない状況がある。今後もさらに物価上昇が続くとすれば、そうした中で主婦年金の負担が増えれば、滞納者がさらに増え、結果として保険制度そのものが成り立たなくなる可能性もあるというのが記事の見解です。

 さて、さすがは主婦層が手に取る機会の多い女性週刊誌。彼女らの立場に立てば、主張・指摘の内容も分からないではありません。

 しかし、日本の現実に即せば、社会制度の単位が「世帯」から「個人」に移りつつある中、負担と利益の関係も、「個人」をベースにしたものに変えていく必要があるのは仕方のないことでしょう。また、実際に国民年金保険料を毎月支払っている個人事業主の(無給)配偶者などとの公平性を担保する意味からも、この制度改正は避けては通れない道のような気もします。

 最終的には、サラリーマン世帯の専業主婦も国民年金に移行していくことになるのでしょうが、(世帯として)収入がなければ支払いはできないのは当然のこと。そうした場合の保険料の免除や支払い猶予については、細かな制度設計が必要なのは言うまでもありません。

 この30年余りで、「多数派」から「少数派」に変化した専業主婦世帯。「特別な存在」となればなるほど、風当たりが強くなるのは仕方のないことなのでしょう。

 そしてそればかりではなく、こうした動きが急に顕在化してきたのは、世の中がそれだけ世知辛くなっていることの証左なのだろうなと、私も改めて感じた次第です。

#3150 「若者のクルマ離れ」を考える

 今年のゴールデンウィークに車で出かけて改めて驚いたのは、「わ」ナンバーのレンタカーが本当に増えたな…ということでした。

 せっかくの連休だし、いくら合理的なZ世代だって(たまには車を使って)家族サービスをしたい気持ちはよくわかります。そこで、「トヨタ××」とか「ニッポン〇〇」とかいう古くからのレンタカー会社よりも使い勝手が良くて手軽な(「タイムズ」だとか「オリックス」だとかいった)いわゆるカーシェアリングを利用して、「家族でお出かけ」ということになるのでしょう。

 とはいえ、そうしたドライバーに日常的に運転をしている人は少ないはず。実際、交通の流れに乗れていなかったり、駐車場や交差点でもたついていたりと、結構苦労されているドライバーの姿もしばしば見かけたところです。

 慣れない車の運転はかえって危ないのではないか…私のようなロートルドライバーはつい思ってしまいますが、「若者のクルマ離れ」というのは(現実的な数字として表れる)「コスパ意識」の浸透とともに、こうしてしっかりと進んでいるようです。

 

 株式会KINTOが昨年2月に18歳〜25歳のZ世代の運転免許保有者609名を対象に行った意識調査によると、「(自分も含め)若者のクルマ離れ」を自覚するZ世代は東京都内在住者で72.8%にのぼり、昨年比で21.5ポイント増加している由。その割合は(生活に車が欠かせない)地方部でも46.7%(昨年比12.7ポイント増)に及び、ここ1年で「若者のクルマ離れ」が大きく進行していることが窺えます。

 理由欄からわかるのは、(そこには)クルマの購入価格や維持費の高さ、特に、昨今の急激な物価上昇やガソリン代高騰など経済的な要因が大きいこと。こうしたことで、残価設定型ローンやサブスクの活用、(個人向け)カーリースといった比較的手軽に車が利用できる手法への興味・関心が広がっているということです。

 調査によれば、カーシェアリングの利用を選択肢に入れているZ世代は全体の83.7%(昨年比5.8ポイント増)、都内に限るこれはと92.0%(昨年比11.3ポイント増)にまで跳ね上がり、もはや「サブスク」は新たなクルマの保有形式として認知されていることが判ります。

 因みに、同調査で「Q.もし収入が増加した場合、優先的にお金を使いたいもの」を聞いたところ、都内在住者の1位は「旅行・レジャー」の41.4%、2位は「趣味・娯楽」の40.8%、地方在住の1位は「趣味・娯楽」の50.3%、2位は「旅行・レジャー」の33.3%とのことなので、これから先もカーシェアへのニーズがあることは間違いなさそうです。

 とはいえ、移動のために自分で車を運転するという行為が、これからの社会とどのような形で折り合いをつけていくかは、現時点では未知数な部分も多いような気がします。環境への影響や安全性、経済性などのリスク要素と、利便性、趣味性などを秤にかけ、これからの若者たちはどのような選択をしていくのでしょうか。

 

 一方そうした中で、この際「自分では運転をしない」というリスク回避の手段を選択する若者も増えているようです。

 ソニー損保が2025年度に20歳を迎えた男女1,000名を対象に行った調査によると、普通自動車運転免許の保有率は51.3%だったとのこと。この数字は2023年は61.2%、2024年は56.2%、2025年は53.5%と推移していて、3年連続で明確な下降トレンドにあるということです。(『「若者の車離れ」加速!理由は“経済面”だけではなかった』2026.1.12 総合情報サイトLASISA)

 かつて昭和の時代には、20歳になったら「とりあえず免許」という風潮もありました。しかし、今では2人に1人は免許を持っていなくても当たり前。免許の種類では、「オートマ限定」が圧倒的多数で、「マニュアル」はわずか11.5%過ぎないということです。 

 若者たちはなぜ自ら車の運転をしたり、車を持ったりしようと思わないのか?

 同調査で「自分の車を購入するつもりがない」と答えた328人に理由を聞いたところ、同率1位(25.0%)で並んだのが、「車以外のことにお金を使いたいから」と「交通事故が怖いから」の二つだったということです。

 「お金がかかる」という現実的な問題もさることながら、「事故が怖い」という心理的ハードルが高くなっていることにも、業界は目を向ける必要があるかもしれません。

 そこには、連日報道される高齢者の事故やあおり運転のニュース、SNSで拡散されるドラレコ映像などを目にする機会が増え、デジタルネイティブ世代特有の「リスク回避志向」が強く働いている可能性があると調査報告書は見ています。

 実際、「危険運転に遭遇しないか不安を感じる」と答えた人は約6割(59.4%)に達し、リスクはできるだけ排除したい、事故などによる被害は負いたくないという意識の高まりが窺われるところです。

 

 さて、そこで。 「若者の車離れ」と言われて既に久しいところがありますが、こうして見てくると、その背景には(もちろん)経済的な事情とともに「事故リスクへの恐怖」という現代的な理由も見え隠れしているようです。

 そう言えば、採用したばかりの新入社員の中に「免許は持っていますがペーパードライバーです」「家の車は時々運転しますが社用車の運転はできません」と、業務上の運転を拒否する若者が増えているという話も耳にするところです。

 もちろん、上司だって(ハラスメントになるのを覚悟で)そんな彼らに無理強いはしないはず。「じゃ、仕方がないね」と彼らを助手席に乗せ、自らハンドルを握ることでしょう。

 「でもね…」と、昭和のオジサンは思うのです。

 「危ないことからはできるだけ身を遠ざけたい」「リスクはヘッジするものだ」という彼ら気持ちは分からないではありません。しかし、誰かがリスクを引き受けなければ世の中が回らないこともあるわけで、そんなときに、(良い若いモンが)フリーライダーを決め込んでいていいものなのか。また、一定のリスクを取ったり、責任を負ったりしなければ得られない、喜びや信頼などもきっと多いのではないでしょうか。

 そんな人たちにはまず、極端な安全志向が「自由に移動することの楽しさ」ばかりでなく、自分自身の可能性も狭めている場合があることに気が付いてもらえれば嬉しいなと(老婆心ながら)思わないではありません。

#3149 バブルは本当に「悪」だったのか

 (ユニクロで買ったような)黒や鼠色の地味な格好ばかりをしている若者たちを見ると、「なんか可哀そうだな…」と思ってしまうのは、私が20代から30代にかけてバブル経済を経験してきた昭和世代だからなのでしょうか。

 実際、1986年から1991年頃までの日本は、経済や文化が異様な熱気に包まれた(いわゆる)「バブルの時代」でした。当時の日本はNYのタイムズスクエアを買い占められるほどの外貨を持ち、ファッションブランドや高級自家用車、ディスコやクラブなどが巷に溢れ、今では考えられない華やかでエネルギッシュな雰囲気に包まれていました。

 実際は、若者たちの懐にそんなに潤沢なお金があったわけではないのです。しかし、「ムード」というのは恐ろしいもの。都会にはワンレン・ボディコン、肩パッドとダブルのスーツが溢れ、人々も「(チャラチャラしたものに)お金を使う」ということにあまり抵抗はなかったような気がします。

 普通の若者が(「将来のこと」などほとんと気にせず)呑気にその日暮らしができた(そんな)時代を今更懐かしんでも仕方がないのかもしれませんが、個人的には楽しい思い出がたくさんある人も多いことでしょう。

 しかし、少なくとも経済誌などを読んでいる限り、「経済の過熱」だとか「過剰融資」だとかがその後の「失われた30年」の原因になったなどと、当時の「バブル」は悪者扱いされるばかり。言っちゃなんですけど、当時の暮らしはそんなに悪くなかったし、今の若者たちにもぜひ経験させてあげたいと感じているのは私だけではないはずです。

 今世紀末の日本を彩った「バブル経済」は、本当にない方がよかったのか。嘉悦大学教授の高橋洋一氏が、5月14日の総合情報サイト「All About」に『「バブル=悪は刷り込みだ」 100点満点の日本を停滞させた真相』と題する興味深い論考を寄せているので、指摘の一部を紹介しておきたいと思います。

 1980年代末、日本経済は株価3万8000円台、失業率2%台と、主要指標だけを見れば好調そのものだった。にもかかわらず、その後のバブル崩壊は「潰すべき過熱」として正当化されてきたのはなぜなのか。

 財務省や日銀の超エリートたちは、自分たちこそが日本経済を支えているという強い自負を持っているようだが、彼らの実績を振り返れば(その)政策判断は失策の連続だったと高橋氏はこの論考で指摘しています。

 氏によれば、その中でも最たる例が、1990年代初頭に起きたバブル崩壊とのこと。

 当時の日銀総裁・三重野康氏は「平成の鬼平」と呼ばれ、金融引き締めを断行してバブルを潰したとされている。しかしその実、1990年からのバブル崩壊は、三重野氏の政策によって引き起こされた人災だった(のではないか)というのが高橋氏の見解です。

 そもそもバブルとは何か。一般的には経済が実力以上に過熱し、資産価格が高騰した状態を指すが、それが必ずしも悪いとは限らない。日本では「バブル=悪」というマイナスイメージが定着しているが、実際には多くのプラス面もあると氏は言います。

 当時の経済指標を見てみると、失業率は2%台前半、インフレ率は2%程度にとどまっていた。これはアベノミクスで掲げられたインフレ率2%目標を基準にすれば、経済の健全性としてはほぼ100点満点の状態だったというのが氏の指摘するところ。そんなバブル経済を悪者に仕立てたのは、(財務省や日銀の)エリートたちだったというのが氏の認識です。

 繰り返すが、バブルは悪などではない。実際、多くの国でバブルのような経済現象が、景気循環のなかで周期的に起こる。ところが、日本ではこれが一度きりの経験だったために「異常事態」とみなされ、過度に恐れられるようになったと氏は話しています。世界的に見ても「良いバブル」はたくさん存在する。経済成長の過程で一時的に過熱することは、むしろ自然な現象だというのが氏の感覚です。

 1980年代後半、日本のバブルは「資産インフレ」という形で現れたと氏は振り返ります。

 1986年の日経平均株価は約1万5000円。翌1987年に米国で「ブラックマンデー」と呼ばれる株式市場の大暴落が起きても、日本株はすぐに回復し、その後は急騰を続けた。そして1989年12月29日の大納会で、当時史上最高値の3万8957円を記録したということです。

 不動産市場もそれに遅れるかたちで過熱し、1991年頃にピークを迎える。

 東京都心部では地価が異常に上昇し、金融機関はその土地を担保に次々と融資を実行。その資金が再び不動産市場へ流れ込み、さらに地価を押し上げる。こうして典型的な資産価格の上昇スパイラルが形成されたと氏は解説しています。

 しかし、株式と不動産市場が過熱していたのは事実だが、一般物価(消費者物価)はそれほど上昇してなかった。インフレは一部の資産市場に限定された局所的現象だったのだということです。

 それにもかかわらず、当時の日銀はこの問題を日本経済全体の過熱と誤って判断し、複数回にわたり公定歩合を引き上げるなど金融引き締めを相次いで実施したと高橋氏は指摘しています。結果として、資産市場だけでなく実体経済までもが急速に冷え込んだ。株価と地価は暴落し企業倒産やリストラが相次ぎ、長期不況に突入したということです。

 さて、私の記憶もまさにそのとおり。当時、サラリーマンの給料は(例え薄給であっても)それなりに上がっていたし、巷にも小金持ちは増えていた。金融や不動産に携わる一部の人々は確かに調子に乗っていたものの、世の中自体はこうした雰囲気をそれなりに楽しんでいたような気がします。

 一方、何か口を挟まなければ商売にならないメディアや政治家は、批判の矛先を不動産価格の高騰に向けていった。「これでは一生都内に家が持てない」「3DKのマンションが年収の○○倍」などと書き連ね、さらに株や不動産投資でひと財産こしらえた人をまるで「悪人」のように扱ったりして、(次第に)「景気の過熱とその鎮静化」を口にするのが正義…みたいな雰囲気になっていたと言ってもいいでしょう。

 (改めて指摘するまでもなく)1980年代後半のバブル経済は、日本が高度成長の延長線上で成熟期を迎えていた証しであったと、高橋氏はこの論考に綴っています。

 しかし、日銀と財務省はその状況を正しく理解できず、過度な金融引き締めに走った結果、バブル退治ではなく経済破壊となったというのが氏の指摘するところ。日本の長期停滞いわゆる失われた20年は、この政策判断の誤りから始まったといっていいということです。

 そう、財務官僚や日銀上層部は、自分たちが「やり過ぎた」ということを、きっとわかっているのでしょう。だからこそ、「バブル経済」と「その崩壊」をいつでも対(つい)にして語ろうとするのかもしれません。

 悪かったのはバブルそのものではなく、バブルを潰した側、日銀と財務省の誤った政策判断だった。これこそが、日本経済の真の病巣であり、今日に至るまで続く財政緊縮の呪縛の原点だとこの論考を結ぶ高橋氏の指摘を、私も(様々なことを思い出しながら)興味深く読んだところです。

#3148 少子化対策の大失敗

 6月3日、厚生労働省が公表した人口動態統計(2025:概数)によれば、昨年1年間に国内で生まれた日本人の子どもの数は67万1236人で、1899年の統計開始以降、過去最少を10年連続で更新したとされています。

 また、1人の女性が生涯に産む子どもの数を示す「合計特殊出生率」も過去最低の1.14となり、前年より0.01ポイント低下しているとのこと。人口規模を維持するためには同出生率を2.07程度はキープしていく必要があるということなので、その水準の約半分という現実に、少子化対策の担当者も頭を悩ませていることでしょう。

 そして、肝心の出生数は前年から1万4937人減少し、減少率は2.2%となったとのこと。コロナ禍の影響などで2022~24年の減少率は5%台で推移していたということなので、減少の勢いはやや緩やかになってはいるものの、日本の少子化は国の想定よりも15年近く速いペースで進んでいるようです。

 こうした状況を踏まえ、5月7日のYahoo newsに関東学院大学教授の島澤諭(しまさわ・まなぶ)氏が『少子化対策の失敗から目を背けるな:財源論より効果検証を』と題する論考を寄せています。

 戦後日本の少子化対策は実質的に1994年のエンゼルプランから始まった。同プランは、晩婚化、両立困難、住宅事情、子育てコストなどを少子化の背景として挙げ、「子どもを持ちたい人が持てない状況」の解消を掲げたと、島澤氏はこの論考で振り返っています。

 しかし、その成果を出生指標で測れば結論は明快だ。内閣府の整理も、1990年代からの拡充にもかかわらず「急速な少子化の流れを変えるまでは至らなかった」としている。これまで少子化対策を重ねてきたものの、子どもが減り続けていることは政府自身が認めているということです。

 しかし、(私が)ここで強調したいのは、対策の意義を否定することではないと氏は話しています。

 保育整備や両立支援は「生まれた子を育てる」ために不可欠なもの。しかし、少子化対策の最終目的が「出生の下げ止まり・反転」だとすれば、30年の政策は少なくとも目的達成に貢献していないと氏は言います。

 そして、だからこそ必要なのが、追加の負担増ではなく、何が効かず何が効いたのかという徹底的な政策評価ではないかというのがこの論考で氏の強調するところです。

 エンゼルプランの具体化として保育需要への対応が進められ、たとえば1998年度の緊急保育対策等に2,621億円を確保した。そして現在、支出規模は桁違いにまで膨れ上がり、(こども家庭庁資料では)2026年度の関連予算は7兆4,956億円となっているほか、児童手当や教育・保育への交付金など、それぞれ兆円単位の歳出が並んでいるということです。

 こうして予算を大幅に拡充したにもかかわらず、それでも出生は減り続けた。それならばまず問われるべきは、「更なる負担増」より既存支出の効果検証と既存予算の再配分だろうと氏は話しています。

 どの施策が出生の意思決定(結婚・第1子・第2子)に効き、どれが効かなかったのか。そして、どの層に届いていないのか…そこを明らかにせず、こども・子育て支援金などという「別腹財源」を作るのは、政策の失敗を財源で埋める行為に近いというのが氏の感覚です。

 しかも、その追加分を医療保険に上乗せすれば、国民には「負担増の見えにくさ」が生まれる。負担の政治コストを薄める制度設計は、説明責任の観点からも問題だということです。

 「独身税」と呼ばれてもこれでは仕方がない。加入者一人当たりの平均月額の見込みとして、政府は制度平均で250円→350円→450円(2026~2028年度)程度としているが、(せっかくの)賃上げ原資を薄く削り続ければ、若年層の所得改善という“本丸”にブレーキがかかりかねないと氏は言います。

 エンゼルプラン自身が、少子化の背景に「子育てコスト」「住宅事情」「両立困難」など生活不安要因を挙げているが、ならば可処分所得を削る上乗せ負担は、結婚・出産の意思決定をいっそう難しくする危険があるということです。

 出生が落ち込んでいる局面で(当事者たちに)負担増を強いるのは、政策目的と手段が逆を向いている。若年層の所得が伸びなければ、家族形成はさらに難しくなると氏は指摘しています。

 「独身税」と揶揄されるのも、こうした矛盾が根底にあればこそ。それは(呼称の是非以前に)国民の体感として“家計の余力を奪う制度”に見えるからだというのが氏の見解です。

 結局、支援金は「少子化対策のための安定財源」という顔で、増負担を恒常化させる装置になりかねない。既存支出を組み替える必要があると氏はこの論考で提案しています。

 ここで忘れてはならないのは、既にこども・子育て分野には巨額の財源があること。先に述べたように、2026年度だけでも、こども家庭庁関連予算は7.5兆円規模であり、児童手当や教育・保育給付に兆円単位の支出が並んでいると氏は言います。

 それでも出生は減っている。氏によれば、ならば今必要なのは、負担を増やすことではないはずだということです。

 財源はある。30年の政策のどこが設計として間違っていたのかを、出生指標に立ち返って検証し、既存支出の効果検証と既存予算の大胆な組み替えることが求められていると話す島澤氏の指摘を、私も頷きながら読んだところです。