5月13日の参議院決算委員会における参政党の梅村みずほ議員の質問に対し、林芳正総務大臣が答弁で口にした「クラッシック・メディア」という言葉がネット上などで話題になりました。
梅村氏は質問の中で、国民の中にメディアに対する分断が生まれており、ネットメディアとのニュースの報じ方の差異への不信感が、テレビや新聞などの「オールドメディア」に向いていると指摘しました。
所感を求められた林大臣は、「オールドメディアという言葉をよく耳にしますが、(総務大臣として)放送を所管しているので、なるべく“クラシックメディア”と呼ぶ努力はしている」と(たぶんジョークとして)答弁。そのうえで、「インターネットでの誤情報の問題が顕在化する中で、(中略)放送事業者は社会的役割を自覚し、自主自立の枠組みのもとで国民の期待に応えてほしい」との認識を示したところです。
さて、実際のところ、オールドメディアの代表格である新聞については、特にその存在感が急速に薄れている印象が否めません。世界的に見ても、今年2月には、アメリカを代表するクオリティペーパーの「ワシントン・ポスト」紙が従業員の3分の1を解雇し、スポーツ報道や国際報道など複数の部門を閉鎖・縮小すると伝えられました。
もちろん日本も例外ではなく、一般紙の発行部数は2025年には2300万部程度にまで減少。2000年の同発行部数は4700万部だったので、四半世紀で半分以下になってしまった計算です。
真偽のほども判らない匿名のネット情報が氾濫する中、これからのメディアはどういった形で社会に受け入れられていくのか。2月3日の山形新聞に、神戸女学院大学理事長で思想家の内田樹氏が『メディアはどうなるのか』と題する一文を寄稿しているので、指摘の一部を小欄にも残しておきたいと思います。
全国紙はいま劇的な部数減にさらされている。民放テレビも末期的な状態。若い人は新聞を読まず、テレビも視ない。全国紙も民放テレビも、ビジネスモデルとしてはあと十年持つか分からないだろうと内田氏はこの論考に綴っています。
なぜ「こんなこと」になったのか。それについてメディア側から真剣な分析を聴いた覚えがない。しかし、「なぜ新聞を読む人がいなくなったのか」という問いには定型的な答えが用意されていると氏は言います。
それは「読者が高齢化したから」「若い人がネットでニュースを読むようになったから」「読者全体のリテラシーが低下したから」というもの。(氏によれば)これらはどれも事実の一端を衝いてはいるということです。
一方、内田氏はここで、新聞やテレビから人が離れたのは、「消費者のニーズに合わせる」というマーケティングに追随した結果ではないかと改めて指摘しています。
日本のメディアが過去半世紀まったく試みてこなかったのは、「読者のリテラシーを向上させ、その結果コンテンツの質を向上させる」という、読者への働きかけだと氏は話しています。
やってきたのはそれとはまったく真逆の、「消費者の質に合わせて、コンテンツの質を下げる」ということばかり。それを配信者たちは「サービス」だと信じてきた。そして、そうやって市場のニーズに合わせ、コンテンツの質を下げていった結果が現状である。そろそろ「マーケティング理論」が破綻していることに気づいてよい頃ではないかというのが氏の指摘するところです。
いま新聞社は、傘下のカルチャーセンターを次々と閉鎖しているらしい。理由は「採算が合わない」から。でも、この種の文化事業は赤字に決まっている。それは、収益のための事業ではなく、メディアが身銭を切って国民全体の教養と見識を向上させるためだからだと氏は説明しています。
そうやって読者のリテラシーを高め、その読者を満足させるだけ質の高い紙面を作る。カルチャーセンターはそういう「高め合い」のための事業だったはずだ。それを「収益にならないから閉じる」というのは、「読者を育てる」というアイディアそのものがもう経営者の脳裏には存在しないことの証左だということです。
さて、お笑い芸人が出演するトーク番組やドラマばかりになった民法テレビや、(年寄り向けのイデオロギーばかりが先に立ち)だからといって相手にされず、先細り感の漂う新聞から魅力が失われつつあるのは誰もが認めるところ。気が付けば(今どき)朝の通勤電車の中で「紙」の新聞を開いているのは、(あきらめの悪い)私くらいのものになってしまいました。
組織として長年培ってきた経験とノウハウを持つメディアの人々が、個人経営のようなネット民に負けてしまうのには何か理由があるはずです。読者のリテラシーを上げ、読者を育てることを怠ってきたオールドメディアと、そうしたオールドメディアを失った社会が行きつく先は、一体どういったものになるのか。
真面目に考えると、今の日本はかなり危うい状況にあるのかもしれません。